クルマがキミに出来たコト。ドライブで救われる”心”があるのなら。そう言いながら、結局キミを救えなかったぼくというクルマ屋が今思うこと。ただ、救いってなんだろうかとも思う今日この頃だよ。
少し歳の離れた友人がいた。クルマとは関係のないところで、趣味の音楽で出会った友人だった。とても優秀なエンジニアで、業界屈指のレベルの研究者だった。その分野がぼくが大学で学んでいたことと近かったので、その凄さはすぐにわかって、ぼくにとっても、科学の話で盛り上がれる貴重な友人だった。そいつはギターがうまくて、たまに一緒に音楽をやったり、酒を飲んだりピザを食ったりして、仲良くしていた。
そいつの人生はクルマとは無縁で、出会った頃はたいして興味もなさそうだったのにある日突然、
「わたし、クルマに乗ってみたい。」
と言い出した。「コガさんたちがアホみたいに楽しそうだからなんかちょっと羨ましくなってきた。」とか言ってて、その時は「なんやそれ笑」って言って笑ったんだけど、今思い返すと、とても大切な気持ちだったんだな、と思う。
何度か挫折しながらMT車に乗る練習を 重ねて、
クルマに興味ないという技量及び心理状態から、いつの間にかプロ並に上手くなり、
自分のクルマを手に入れ、スポーティーなMT車でのカーライフの醍醐味を手に入れた。
まぁ、MT車に乗れてクルマを所有すること自体は、地方に住んでいればそんなに珍しいことでも高度なことでもないのだけれど、心理的に「割とどうでもいいと思っていた人が、対極にあるであろうスポーティーなMT車を所有する人になる」という、文字だけで見ると信じられないような展開だ。でも、このことにぼくは何年も後になって気がつくことになるんだけれど、逆にそれくらいのインパクトがないと、人の心って動かないのかもしれない。
運転が上手いかどうかというのは、実際の運用上は、そんなに重要なことではないのかもしれないけれど、何事も
上手い人だけに見える世界というのがある。
もちろんぼくにもまだ見えない世界が広がっているからそれを見たくて毎日クルマに乗るのだけれど、あいつは “才能” というもので一足飛びに “少なくともぼくと同じところまで来た” という感じがした。この出来事はぼくに、クルマの運転というのは、
“きちんとやればきっと基礎は出来て、本質的には本人が持っている身体能力や知識や感性で仕上がりが決まる、”
ということを確信させてくれた。そして技量の上達とは異なる話軸でいうと、人それぞれにクルマを運転するというドラマがあって人それぞれのカーライフがある。だから、
「いろんなクルマがいて、今のその人にぴったりなクルマとの出会いがあるはず」
という、今の仕事を始めるにあたっての「覚悟」につながる発見をさせてくれた出来事だった。
そんな友人が、数年前のある日他界した。
ずっと病気で苦しんでいて、少しずつ仕事ができなくなって、入退院を繰り返しながら回復の時を待っていたけれど、無念にもその病気はあいつをぼくらのもとから連れ去ってしまった。その病気のことを知った時から、こうなる日が来ることは覚悟していたけれど、やっぱり寂しく、悔しい。もっとしてあげられることはなかっただろうか、とか、結果が決まっていたとしても、せめて生きている間にもっと楽しい気持ちにさせてあげられなかっただろうかと。
人生に「タラ・レバ」はないのだから、するべき事は「良かった事を積み重ねてより良いものにしていく」しかない。しかないというか、そうして生きていきたい。そいつが残してくれた言葉や、ぼくに教えてくれたことが、巡り巡って “誰かの幸せ“ に変わっていくことを願いながら、やっていきたい。
そいつにとってクルマは楽しかったそうだ。少し前までは全く興味がなかったし、なんならいわゆる”クルマ好き”のことはよく思っていなかったらしい。地方に生まれ育ち地元の大学に通い地元に就職した。誰かがクルマを持っているし、クルマ好きはいくらでも運転してくれるから、大して困ることはなかったらしい。ただ、自分の意志で、「行きたいところに、今、行きたい。」と強く思うようになって、「自分で乗れたら…」と思うようになった。おまけにコガやその周りの人間はアホみたいに楽しいと言っている。如何に。と。
そいつは、クルマに乗れるようになってすぐ、クルマを手に入れた。クソおしゃれなやつを。中古のアルトとかワゴンRとかにしとけよと思ったのだけれど、せっかく乗るならオシャレなのが良かったらしい。この傾向は今のぼくのペーパードライバーからクルマを手に入れようとするお客さんの思考と同じだ。そう、妙な入れ知恵がないぶん、そして、世界を見渡してほしいものを探す能力がある人は、世界中から自分の好きなものを探して来るのだ。いまや、インターネットの社会だ。それでクルマを手に入れてからは、
「孤独が孤独でなくなった。」
と言っていた。この一言は印象的で、ぼく自身もそう思う。冒頭に書いた通り、そいつはとても優秀な科学者で、ゆえに周囲から理解されないことも多かった。けど人付き合いのバランスも取れる人で、一見ごく普通の人に見えるからこそ、本業で本領を発揮した時には周囲とうまくやれなかったんだろう。たまにぼくにこぼす愚痴から、ぼくはうすうすそんなことを感じていた。若いサラリーマン研究者にはありがちなこととはいえ、分野も特殊で、孤独で、辛かっただろうなと思う。
そんな孤独を感じる時、酒を浴びるほど飲んでも、友達や恋人と一緒に過ごしても満たされない、ひとりで心を癒したいと思う時、クルマはとても居心地が良かったらしい。夜中にふらりと海沿いの道を走っていって、途中のコンビニで缶コーヒーでも買って飲みながら、海を眺めてお気に入りの曲を聴いて缶コーヒーを飲んでいるるだけで良かったと。
いいよね、そういうの。ぼくも好きだよ。
この人は運転技量が凄まじく高かった。センスと言うやつだと思う。実は遠い親戚に有名な自動車の開発テストドライバーがいたのも知っていたけど、とにかくクソ上手かった。で、本人はこう言っていた。
クルマの運転が上手くなってきたと実感した時、「自分はもっとやれる」という可能性みたいなものを感ると。それは楽器を弾けた時の嬉しさとか、楽器が上手になって演奏に満足できた時の歓びに似ているとか、あいつがどんな言葉でそれを端的に表現したかはっきり思い出せないのが悔しいけど、
決してそれは“ワガママな全能感”ではなく、「自分との対話であり、クルマという他者との対話」を通じて心が整理されていくことで得られる「自信」、みたいなもの
だと言っていた。もっと端的にね。
話し出せばいくらでも出てくるので、また折に触れて、あいつが残してくれた、「クルマとヒトとの関わり合いについてのいいところ」をお話ししたいと思う。
キミの言葉は、ぼくを通して今まさに、いろんな人を「幸せ」にしていると思うよ。自信を持ってそう言うよ。
また何回目かのお盆が来たけど、COVID-19とかいうクソみたいなウイルスが世の中で猛威を奮っててさ、その感染症拡大のことを考えると、迂闊にお墓参りも出来ないんだわ。ごめんな。
そういえば、少し前の話になるけど、緊急事態宣言ってやつが解除されてるときに、お母さんに会いに行ったよ。いきなりくそオシャレなクルマで実家に帰ってきて、MTのでしかも小回りの聞かないあのクルマを上手に車庫に入れててびっくりしたって言ってたよ。似合ってたな、あのクルマ。
お盆ということで。たまには夢でもいいから帰ってこいよ。またドライブしよう。目的地なんてなくていいね。
自動車開発テストドライバー 古賀章成
kogatounten.com
【協力】
(有)ソートク自動車 / オートザム楠木
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