お誕生日を迎えまして、

ぼくは40歳になったらしい。誕生日を迎えるまでは、39歳という年齢と数字の響きが気に入っていてたとえば誰かに「おいくつですか?」と聞かれても、「さんじゅうくデス。」と答えることに躊躇がなかった。しかしやっぱり、「よんじゅうデス。」はどうにも受け入れがたい。しかしのしかし、この世に生んでいただいて40年が経過したという事実はぼくがどう騒いだところで事実なので、ぼくは40歳になりました。
20歳になって以来、いくつになっても「子供の頃に思ってたオトナってもっとオトナだよなぁ。」と思っていたけれど、だいたい似たようなことを思う一方で、「二十歳から20年か。必死にやっただけのことはあるかな。」という、ちょっと格好つけ過ぎではあるものの目標としていた自分の能力やスキルについてはまぁまぁいいんじゃないかと思っている。仮に(、これからする「もしも」の話は大嫌いなので基本的にはしないのだけど今回だけ例外的に)、「もしも13歳に戻れるとしたらチケット」が手元にあってそれを使うかというと、ぼくは使わないと思う。もちろん後悔は沢山ある。成功体験と後悔とを比べたら2:8で後悔が多いくらいだ。だけどそれでも自分の人生をもう一度やり直してその後悔を克服し、成功体験のそれらを十分に上回り、いまの状態にたどりつく或いは向上させられる自信はない。そう思えるくらいには真剣に、自分の人生と世界とに向き合ってきたつもりではある。
たぶんいま、ぼくの人生の中で3本の指に入るくらい穏やかな時間を過ごせている。多少の問題や課題はあったとしても、軽微だったり「見えている」状態なのでそれらはなんとかなる。何をどうしていいのかわからずもがいていたあの頃に比べればずっとずっといい。じゃあ幸せかと問われると、相対的には幸せだという自覚はあるものの、「自分自身が日常の中で多幸感を味わっているか」というとそれはそうでもない。まったくつまらんやつである。
お誕生日が過ぎて1週間が経ってやっと少しずつ現実を受け入れられつつありいまこの記事を書いている。自分にお誕生日プレゼントを買ってあげる気にもなった。この記事をいま書いているこのPC(の補修部品)である。20年前に卒論を書く前に買ってもらった東芝のDynabookでたまたま先日、互換バッテリーと修理用キーボードの新品が発売されていることを知って購入して取り付けた。これはちょっとうれしいと思った。

キーボードに指をおいて書き出した途端、指がしゃべる様に言葉が出てくる。このキーボードの配置、感触、このマシンの画面の色、音、20年ぶりだけど指や耳が覚えている。卒業論文(のための膨大な計算も含め)という人生で一番心身ともにタフに使った日々をともにしたこのマシンのキーボードを、ぼくの手が覚えていた。「z」のキートップが取れてしまって以来スピードが出なくなったことと、社会人になってMacに買い替えて以来このPC/キーボードから遠ざかっていた。この時代(2000年前後)のデカめのPCを持っていた人たちはわかると思うけれど、この時代は群雄割拠キーボードの配置も各社微妙に違って困ったものだった。FnとCtlの位置が逆とか勘弁してほしいし、十字キーの位置もけっこう困りものだった。なのにいまぼくは、十字キーもCtlも完全にブラインドで触れている。自分でもびっくりしている。しいて言えば、長くキートップを失っていたzだけ指が無駄に迷う。
これから先の人生、「うれしい」という感情を大切にしたいと思っている。突然どうしたと言われるかも知れないが、そう思っている。もちろんぼくも「うれしい」という感情は知っているし、自分の仕事はだれかの「うれしい」で成り立っている。だけど、ぼくは自分のことでうれしいと思うことが下手すぎる。誰かがうれしいと言ったときにその感情はわかるしそれに伴ってぼくも「うれしい」と思う。だけどそれを外部からのおすそ分けでいただくのではなくて、自分で出来る(「うれしい」と思える)ようにならないとダメだなと思っている。ダメ、ではないか、けどそれはつまんない人生なんだろうなと思う。言い換えれば、ぼくが感じている自分の人生のつまらなさはそこに起因していて、だからこれからなんとかしていきたい。まだ見えていないそれを理解して/手に入れて、なんとかいい人生にしていきたい。と、いうのを、40歳をやっていくうえでの所信表明として、この記事を締めくくりたいと思う。
幸せとはなんなのか、大人になれば自然とわかるもんなんだと思っていた。でも40年経過したけれど、いまいちわかっていない。じゃあ誰かの人生を羨ましいと思っているのか?と聞かれると、厳密にはそうでもない。ぼくはぼくでいいかなと思う。よくやってると思う。ぼくはぼくでいいかなと思えている40歳か。上出来か。
上出来だ。 どうにもならない過去はどうにもならない。でも悔しいと思っている過去を価値のあるものに変えられるかどうかは、今の自分の生き方で変わって行くものだと思っている。無駄に無駄を重ねた高校時代のこととか、無理に無理を重ねた大学時代の自分を、早くにこの世を去ってしまった友人たちと過ごした時間を、自分で認めてやれる日が早く来るように、40代をやっていこうと思う。
え?平均寿命で言えば人生の折返しだって?人生長すぎやろ。折り返して走りきれる気がしないぜ。けど、走れるなら走っていくのが礼儀(誰に対しての?)といいますか、いい感じに走れたらいいな。結構鍛えたし、結構勉強したし、結構広く社会も見てるつもりではある。
さあ、やっていきましょうか。
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